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2025-02-03 08:41
親からも上司からも社会からも解放されたとき、初めてフロムの言っていることがわかった気がします。 「ほとんどの人間は実のところ自由を欲しがっていない。 なぜなら自由には責任が伴うからである。 ほとんどの人間は責任を負うことを恐れている」 自由を手に入れたとき、その先に何が待っているのか。今日はそんなことを考えたいと思います。 学生時代から僕も「自由」への憧れがあり、それに向かって生きてきたつもりです。 でも大人になった今は自由を享受するのと同時に「自由の代償」にも対峙していかなくてはならないことを知りました。 人間というのは権威に服従したがるものです。自由を求める一方で責任のない服従を欲するというジレンマがあります。 僕の周りにも「自由に生きたい」「独立したい」と、言っている人はたくさんいるし、僕が自由に生きているように見えるのか「どうしたらそんな自由な生き方ができるの」と聞かれることもよくあります。 僕はそんなときいつも、本当に自由がほしいのではなく、自由に憧れてる自分が欲しいだけなんじゃないかと思ってしまいます。 ↓
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yuta yuasa
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yuta yuasa
valvedaikanyama
実際には自由の代償に向き合うことはなく、多くの人は服従を求めます。 また服従は特別さを奪い、本来持っているはずの能力を奪っていきます。 自由になりたい、と口では言うものの、実際には自由から逃走し服従を選ぶことで、特別さを失って、ぬるま湯のような服従から逃れられなくなる。 その中でも承認欲求だけは育っていくので、自己解離が起こるのだと思います。 世の中の風潮とは合わないし、自分の平凡さ無力さに嫌気がさすこともしばしばですが、僕はまだ特別な存在でありたいです。 そう言う意味で、まだ誰にも服従するわけにはいかないし、誰かを服従させようとも思わない。 まさにいま、財産も名声も権力もない、無力さや孤独感と向き合ったニート期間は、自由やその代償について考えるいい機会になっています。 僕は代償を負ってでも自由を手にしたいし、もっと特別な存在でありたい。 結局、思春期と何も変わらないですね。一周してまた元通り。 なんか久々に尾崎豊が聴きたくなってきました。 ↓